ああ、ブリンヂイシイ【注1】の港を出でてより、はや二十日あまりを経（へ）ぬ。世の常ならば生面【注2】（せいめん）の客にさへ交はりを結びて、旅の憂さを慰め合ふが航海の習ひなるに、微恙【注3】（びよう）にことよせて【注4】房（へや）の內(nèi)にのみ籠もりて、同行の人々にも物言ふことの少なきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。この恨みは初め一抹の雲(yún)のごとく我が心をかすめて、瑞西（スイス）の山色をも見せず、伊太利（イタリア）の古跡にも心をとどめさせず、中頃は世をいとひ、身をはかなみて、腸（はらわた）日ごとに九廻す【注5】ともいふべき慘痛を我に負はせ、今は心の奧に凝り固まりて、一點の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、聲に応ずる響きのごとく、限りなき懐舊の情を呼び起こして、幾度となく我が心を苦しむ。ああ、いかにしてかこの恨みを銷せん【注6】。もしほかの恨みなりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなん【注7】。これのみはあまりに深く我が心に彫りつけられたればさはあらじ【注8】と思へど、こよひはあたりに人もなし、房奴【注9】の來て電気線の鍵をひねるにはなほ程もあるべければ、いで、その概略（あらまし）を文につづりてみん【注10】。 余は幼き頃より厳しき庭の訓【注11】（おしえ）を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、學問の荒み衰ふることなく、舊藩の學館【注12】にありし日も、東京に出でて予備黌【注13】（よびこう）に通ひしときも、大學法學部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首【注14】（はじめ）にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし【注15】。十九の歳には學士の稱を受けて、大學の立ちてよりその頃までにまたなき名譽なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三年ばかり、官長の覚え殊なりしかば【注16】、洋行して一課の事務を取り調(diào)べよとの命を受け、我が名を成さんも、我が家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて、五十を越えし母に別るるをもさまで悲しとは思はず、はるばると家を離れてベルリンの都に來ぬ。

1 ブリンヂイシイイタリアの港。ブリンジジ。

2 生面初対面。

3 微恙ちょっとした病気。

4 ことよせて言い訳にして。

5 腸（はらわた）日ごとに九廻す憂えもだえて腸がねじれるほど深く悲しむこと?！笖嗄cの思い」と同じ。

6 銷せん消そう?！袱蟆工弦庵兢沃鷦釉~。

7 なりなんきっとなるだろう。「な」は強意の助動詞?！袱蟆工贤屏郡沃鷦釉~。

8 さはあらじそうはあるまい?！袱浮工洗蛳庵兢沃鷦釉~。

9 房奴ボーイ。

10 つづりてみん書いてみよう?！袱蟆工弦庵兢沃鷦釉~。

11 庭の訓家庭教育。

12 舊藩の學館江戸時代の藩の學校。

13 予備黌東京大學予備門。

14 一級の首成績発表で一番最初に名前があること。

15 慰みけらし慰めとなったらしい。「けらし」は、過去の助動詞「けり」の連體形+推定の助動詞「らし」の終止形。

16 殊なりしかば格別であったので?！甘猡胜辍工膝圣昊钣盲涡稳輨釉~?！袱筏工线^去の助動詞。